願いと記憶




 うっすらと記憶に残っているこの場所。


「確か、ここを右に……」


 その記憶に誘われるがまま歩みを進め、一つのとびらを開き中に足を踏み入れた。

 物がほとんど置かれていない、殺風景な部屋。

 ほとんどと言ってもなにもないわけではなく、カーテンすら付けられていない大きな窓とすでに腐っているであろう茶色く変色したサボテン、コルクボードに貼られている一枚の写真がこの部屋には置かれていた。

 そしてその窓の近くには一人で眠るにはほんの少しだけ大きいベッド。


「……もう、誰も住んでないのか」


 埃がかぶっている窓辺、ベッドを見ては呟き、小さく息を吐き出しては天井を見上げた。

 うっすらと残っているこの記憶はきっと、一年半前の俺の記憶なのだろう。

 誰も教えてくれない一年半前の俺はここに来たことがある。


「でもなんで……」


 どうしてこんなにも胸が苦しい?


 埃まみれになることも気にせずに置かれていたベッドへ仰向けの体勢で倒れ込むと、埃が宙を舞い俺を襲ってきたため思わず軽く咳き込んだ。


「……忘れちゃいけないことが、あった気がするんだ」


 それがなんだったのか、なにも思い出せない。


 いつの間にか目の端から零れていた涙を乱暴に拭うとどうじに、とびらの開かれる音が耳に入ったため驚き上半身を起こす。

 なにもない殺風景なこの部屋に来るとしたら、この部屋に住んでいる人物しかいない。

 そして一年半前の俺はその人物と知り合いだった――


「……トキワ?」


 目の前に現れた人物の姿に信じられないと、俺は目を見開いた。

 そして目の前の人物も俺と同様、目を見開いていた。


「タマキ、君? どうしてここに」


「お前こそ、なんでここにいるんだ? お前の部屋、なのか?」


 動揺しているせいか、お互いにはっきりと言葉を放つことができない。

 心臓がバクバクと、うるさい音を立てている。


「そう、だね。ここは俺の部屋だったよ」


「だった?」


「うん。ちょっと、大事なものを忘れちゃって」


 ふわりと、いつものやわらかい微笑みを浮かべたかと思うとコルクボードに画鋲でとめられていた一枚の写真を手にし、眉を下げながらそれを見つめた。


「……友達、なのか?」


 先ほどちらりとその写真を見たとき、二人の少年が写っていた。

 一人はきっと、目の前にいるトキワだろう。

 髪の色といい、表情といい、面影が残っている。


「……うん、友達。大事な友達」


 その写真を大事そうにポケットへしまう彼の行動に、胸の奥がチリッと小さな音を立てたことに気がついた。

 けれど、それがなんなのか俺にはわからなかった。


「それで……タマキ君はどうしてここに?」


 先ほどから気になっていたのだろう。

 そう問いかけながら小首を傾げては、服が埃で汚れることも気にせずに俺の隣へと腰を下ろしてきた。

 そんな彼の行動を見つめながらしばらくこの部屋のことを考えては、ゆっくりと口を開く。


「記憶のまま歩いてたらここに着いてたんだ。……この部屋、なんか懐かしくて、胸が苦しくなる」


「タマキ君……」


 名前を呟かれ、思わずハッと我に返った。


「わ、悪い! なに言ってんだろうな、俺。気にしなくてもいい――」


 笑い飛ばすように笑みを浮かべながら彼へ顔を向けたとどうじに、影が俺に降ってきた。

 その影がなんのものだったのが気がついたときにはすでに遅く、少しだけ湿っていたトキワの唇が俺のを塞いだ。

 驚き、思わず呼吸をすることを一瞬だけ忘れた。

 啄むような口付けを何度も繰り返され、いつの間にか自分の体は埃っぽいベッドへと押し付けられていた。


「トキワ……」


 同性の相手にキスをされたというのに、特に気持ち悪いとは思わなかった。

 むしろ逆に懐かしくて、温かくて、涙が溢れ出してきた。

 そんな俺の反応をどう思ったのか、目の前の彼はぎょっと目を見開いたかと思うとなにも言わずにすぐに目を細め、俺の体を抱きしめてくれた。


「タマキ君、ごめん。嫌だったよね」


「……ち、が。ちがう」


「タマキ君?」


 不思議そうに俺の名前を呼ぶトキワの首の後ろへ両腕をまわしては、涙の溢れている顔を見られないようにと彼の肩へと顔を埋める。


「嫌じゃ、なかった。むしろ懐かしくて、悲しかったんだ」


「……悲しい?」


「トキワには話してなかったっけ。俺、一年半前の記憶がないんだ」


 息を呑む音がすぐそばで聞こえた。

 俺の言ったことに驚いているのか、はたまた信じられないのか。


「だからこの部屋が懐かしいって思ったとき、もしかしたら一年半前の俺はここに来たことがあるんじゃないかって。ここに住んでる人と知り合いだったんじゃないか、って……思った」


「タマキ、くん」


 耳元で名前を呟かれるとどうじに、俺の体を抱きしめているトキワの腕に力が込められることがわかった。

 その腕の心地よさに目を細めながら言葉を続けようと口を開くと、その唇を再び塞がれた。

 始めは啄むような口付けだったのが、徐々に体の芯まで熱くなるような口付けへと変化する。

 ねっとりとした熱いトキワの舌が俺のと絡み合い、思わず体が小刻みに震え出す。


「ん……はっ、ときわ……」


 これ以上は駄目だと、慌てて彼から顔を背けては大きく息を吐き出し、再び彼へ顔を向ける。

 と、彼の頬に伝っていたものが視界に入ると、俺は目を大きく見開いた。


「な、なんで、泣いてるんだよ」


「……え」


 ゆっくりと彼の手が頬に伝っていた涙に触れ、その存在を確かめたかと思うと、その瞬間、彼の表情がクシャリとゆがんだ。

 が、すぐに彼が俯いてしまったためそれ以上、表情を読み取ることができなかった。

 俺の視界にはふわふわのココアブラウンの髪と、小刻みに震えている彼の体が映っている。


「……一年半前のタマキ君と、ここに住んでた人は知り合いでもなんでもなかったよ」


 鼻のすする音、微かに震えている声が、その言葉が嘘だと言っていた。


 きっと一年半前の俺はここに来たことがあって。

 そのときにこの部屋にはトキワが住んでいて。

 俺たちはきっと知り合いだったんだ。

 友人以上の、とても大切な関係だったんだ。


 忘れてはいけないことを、俺は忘れてしまった。


「……俺、そろそろ帰るね」


 目を一度だけ強く擦り、俺から体を離してベッドから下りる彼を見てはゆっくりと体を起こし、俺に背を向けている彼へ声をかける。


「トキワ。また、会えるよな?」


 たった数秒の沈黙が、とても長く感じられた。


「……タマキ君がそう願うなら、きっと会えるよ」


 振り向いた彼は、今までに見たことがないほどに寂しそうな顔で笑っていた。

 きっと、俺もそんな顔をしているのだろう。


 忘れてはいけないことを忘れてしまった自分が憎かった。




  (終)