冷たさと涙と




 真夜中、小さく響く足音で目が覚めた。

 ゆっくりと近づいてくる足音は俺の部屋のとびらの前でやみ、それから数秒後にまたその足音は離れていく。

 一体、誰が来たんだと落ちそうになる瞼を強めに擦りながらベッドから下りては、ぺたぺたと裸足のまま冷えたフローリングの上を歩きとびらを開いては顔を覗かせ辺りを見渡す。

 と、開かれたとびらの端に玉子柄の可愛らしい包みが置かれていた。

 それを指先で拾い上げ底に触れてみると温かい。


 弁当、だろうか。


 理解に苦しむ事態に無意識に眉を寄せながら触れているそれを凝視していると、結び目の部分に紙が挟まれていることに気がつき抜き取っては、二つに折り畳まれているそれを広げ書かれていた文字を左から右へ目で追う。

 懐かしい、どこか癖のある文字を最後まで読んだ俺は手にしていた紙を強く握り潰し、裸足のまま飛び出し全力で走る。


『ちゃんと飯食ってるか? 心配でお兄さんがオムライス作ってきたから食べてな』


 どうして足音で気がつくことができなかったのか。

 俺なんかのために危険を冒してここまで来てくれたというのに。


『お前が食べるころにはもう冷たくなってるかもしれないけど今回のは自信作なんだ。きっと喜んでもらえる』


 なにかを踏んでしまったのか、足の裏が痛い。

 けれど立ち止まる余裕なんかなくて、唇を強く噛みすぎていたのか鉄の味が口の中に広がって。


「トキオっ……トキオ!」


『タマキが笑ってくれるだけでお兄さんは幸せだからさ』


 暗闇の中、名前を叫ぶ俺の声だけが響く。

 知らずのうちに涙が頬を伝っていた。

 紙を握り潰していた手を広げてみると、手の平に爪の跡が食い込み白くなっていた。


『ごめんな』


「どんなお前でも、お前がお前なら全て受け入れられた。お前となら全てを捨ててもいいとさえ思えた」


 手の平に載っているグシャグシャになってしまった紙を乱暴にコンクリートの地面へ投げつけ、声の聞こえてきたほうへ顔を向けると街灯の明かりのおかげで見慣れた後ろ姿が視界に入った。


「起きてるとは思わなかった。あんなお寝坊さんだったのに」


「おまえの足音で目が覚めたんだよ」


 伝っていた涙を手の甲で強めに拭っては、こちらに顔を向け眉尻を下げながら困ったように笑う彼へ肩で息をしながら一歩ずつゆっくりと近づく。


「タマキ、靴は?」


「急いでたんだ。履く余裕なんてなかった」


 目の前に立ち、ちらりと自分の足を見下ろしてみると赤くなっていることがわかり思わず笑みがこぼれた。


「また来ると思ってなかったから本当に焦った。なあ、トキ──」


 しばらく足先を見つめ、名前を口にしながら顔を上げようとしたらいきなり体を強く抱きしめられ、思わず一瞬だけ息が詰まる。

 上着も羽織らずに走ってきたせいか抱きしめている彼の温もりが心地好くて、目を閉じてはそっと肩に顔を埋めてみる。


「お前を救うことできるのが俺だったらよかったのに」


 まるで独り言のように呟かれた言葉に、彼の表情を伺おうと顔を上げてみるが薄く笑みを浮かべているだけでなにを考えているのか読み取ることができなかった。


「でも俺じゃお前を救えない。……そうだろ?」


「トキオ」


「それでもお前のそばにいられるならって、求めてもいいならって」


 名前を口にした俺の言葉に耳を貸さず続ける彼の顔が、見上げている俺のに近づき触れるだけの口付けを落とす。


「お前は、俺と一緒にいて幸せだったか?」


 唇に触れていた、微かに乾燥していた彼のが俺の耳に触れそう囁いてきた。

 熱い息が、声が直で耳に入り思わず小さく体が震える。


「幸せ、だった。おまえに求められるのも嬉しかったし、おまえといると嫌なことだって忘れられた」


「嫌なこと、ね」


 意味深に俺の言葉を繰り返しては抱きしめていた腕を解き、距離をおく彼を再び見上げる。

 と、彼の手が包み込むように俺の頬に触れ、まるでなにかを拭うかのように優しく親指の腹で撫でてきた。


「……ごめんな。俺を憎んでくれてもいい」


「なにを──」


「タマキが好きだ。本当に、愛してる」


「トキオ」


「お前を縛り付けていた俺を憎め」


「トキオ!」


 頬に触れていた手が離れる。

 彼は困ったように笑いながら俺を見つめていた。


「お前が笑ってくれるだけで俺は幸せなんだ。だから泣くなよ」


 言葉に慌てて自分の頬へ触れてみるとなにかが伝い、濡れていた。

 原因がわからないまま、二度も涙を流したのか。


「トキオ、俺もおまえが好きだ。愛してるっ。でも、でもやっぱり──」


「言うな」


 続けられるはずだった言葉は彼の手によって塞がれた。


「言わなくてもお兄さんにはなんでもわかる。その涙の理由だって」


 小さく笑いながら場の空気に合わないおちゃらけた口調で話す彼を見つめていると、口を塞いでいた手は離れ、そのまま滑らせるように俺の頭を撫でる。


「だから笑ってて欲しいんだ、タマキには」


「……もう、こっちには来ないのか?」


「そうだな。名残惜しいけど、もう会えないってわけでもないしな」


『捕まえたら閉じ込めておかなきゃ』なんて笑う彼に釣られるよう薄く笑って見せる。

 と、頭を撫でていた手が離れたかと思うと笑っていたはずの彼は再び眉尻を下げながら、らしくもなく泣きそうな表情を浮かべていた。


「トキオ……なら俺は本気で潰しにかかる。覚悟しとけよ?」


「ああ、いつでも大歓迎。そっちこそ油断して俺以外のやつに殺されたりするなよ」


「俺を舐めるな。これでもJ部隊のリーダーだったんだからな」


「そういえばそうだったな」


 彼は泣きそうな表情を浮かべたまま。

 俺は彼の望む笑顔を浮かべたまま。

 最後になるであろう別れのキスをした。


 ずっと手にしていた包みからはいつの間にか熱が失われていた。




  (終)