なくした感情の行方




 夢の中の俺はいつも誰かの後ろ姿を追いかけている。

 どれだけ走ってもその距離は縮まらず、腕を伸ばしたって空を切るだけで掴むこともできない。


「待て……待ってくれ!」


 腹の底から声を張り上げても、前を歩いている男は足の動きをとめることはない。

 まるで俺の声が聞こえていないようで、振り向くことすらしない。


 音を立てながら奥歯を噛みしめ、再び追いかけようと歩みをとめてしまった足を一歩、踏み出したとどうじだ。

 まるでガラスが割れたかのように足場が崩れ落ち、自分の体は底の見えない暗闇の中へと落ちていく。

 未だに背を向けている男の後ろ姿を見つめていると、その男は足をとめココアブラウンの髪を揺らしながらこちらを見た。


「カナエっ!」


 天井へ腕を伸ばした格好で目が覚めた。

 体が熱くて、額に触れてみると汗をかいている。


「今……」


 誰かの名前を叫んだような気がするが、一体誰の名前だったか。

 夢を見ていたような気もするが、内容を思い出すことができない。


 溜め息混じりに深く息を吐き出してはすぐ近くから痛いほどの視線を感じたため、そちらに顔を向けてみるとベッドの脇でこちらを見ているトキオと目があった。

 数日前から一緒に住んでいる男だが、この男ほど信用のできないと思った人物は今までにはいない。


「おはよ、タマキ」


「なんでここにいるんだよ」


 重い体をゆっくりと持ち上げながらそう言葉を返してやると、『相変わらずだなー』なんて笑われた。

 今のどこに笑う要素があったのか。

 乱れている髪を整えながらそんなことを考えていると、真っ白でふわふわとやわらかいなにかを顔に押し付けられたため驚き、思わず一瞬だけ呼吸を忘れる。

 ふわりと、昨日買ったばかりの新しい洗剤の香りが漂うこれは……タオルか。


「うなされてるみたいだったからさ。無茶するなよ、そろそろ復帰なんだし」


「……サンキュ」


 トキオの言動は信用ならないが、その優しさにまでいちゃもんをつけるほど俺の性格は悪くはない。

 押し付けられたタオルで汗のかいていた額や首などを雑に拭いては、最後にもう一度そのタオルに顔を押し付ける。

 やわらかいタオルはまるで俺の体を包み込むようで、視界いっぱいの白に思わず安心した。


「なあ、トキオ」


「ん?」


「俺、誰かの名前言ってたか?」


 タオルに顔を埋めたままモゴモゴと、くぐもった声で問いかけてみるがすぐに返事はなかった。

 顔を上げるつもりもないため、彼がどんな表情を浮かべているのかわからない。


「んー、そうだな。トキオ、今日の晩飯はオムライス! って叫んでたな」


 それ、どう聞いても嘘だろ。


 言い返してやろうと口を開くが、彼のものであろう手が俺の頭を優しく撫でると開かれていた唇はゆっくりと閉ざされる。


「焦らなくていい。ゆっくりでいいんだ」


 肩が小刻みに震え、目の奥が熱くなる。


「タマキのペースで歩いて行こう」


 夢の中の男のことを考えたらなぜだか胸が痛くなった。




  (終)